当たり前を疑うこと

こんにちは、労働分科会参加者の青柳です。

 

一週間で100回以上の”Why?”を発しました。

 

 僕が京論壇に参加した理由は、京論壇は「個々人の価値観をぶつけあう」ことが予め設定されている場所だからです。価値観の議論というと難しく聞こえますが、つまりは自分が何が好きで何が嫌いかを言葉にして他者と共有する作業だと考えています。

 普段はなかなか出来ない、個々人の感じ方に根ざした議論をいわば強制される空間で否応なしに掘り下げられることで、新たな価値観を知り、自分を知ることを目標にして北京に向かいました。

 

しかし北京セッションにおいては「社会」という大きな壁にぶつかりました。

 

 「大学の専攻と就職は関連すべきか?」「スキルミスマッチは問題か?」

このような質問に答える際に、最終的には「日本/中国はこのような社会であり、その社会に住む個人がこのように感じるのは無理もない」というような結論になることが多くありました。

 

 1つの物事を説明する方法は無数にあります。ただし一度ある説明に納得するとそれを再び疑うことは困難です。ましてや他の説明に納得することは容易ではありません。

 「日本のシステムはこうだから日本人はこう考える」、「中国ではこういう習慣があるから中国人はこう感じる」・・・。社会が個人の価値観を規定するというのはわかりやすい説明ですし、納得できる部分も大いにあります。でも、本当にそれが最終的な答えなのでしょうか?まだ納得できない部分が多くあります。

 

 個人と社会を行き来しながら、妥協せず”Why?”を自分にも他人へも問い続けることで、個人の価値観を形成する核を見つけていきたいと思います。