北京セッションを通じて感じたこと

 

   社会保障分科会の窪西です。北京セッションも佳境に差し掛かり、今まさに中間報告会に向けた最終準備に取り掛かっている最中です。(従って、この文章がアップされる頃には、報告会を終えて祝杯を挙げていることでしょう)

 

 

 

 

   さて、社会保障分科会での最大の目的は「社会保障制度に関する議論を通じた個々人の価値観の発露」にあります。そこで今回は少々スペースを頂いて、僕の価値観のうち、北京セッションを通じて意識に現れた部分について話したいと思います。

 

 

 

 

    僕は今まで無意識のうちに、「日本人が〜」「北京大生は〜」といった抽象的(ないし帰納的)な言い方を好んできました。個々人の行動や思考様式が国家や学校という周囲の環境から受ける影響力の強さを考えれば、それは妥当な発想に思われますし、帰納的思考は社会科学を学問たらしめる一つの根拠です。しかし、僕が北京に来て接しているのは、「中国人」や「北京大生」といった抽象的な概念ではなく、その人そのものです。”〜 than I expected”という表現を飽きるほど用いるうちに、僕はそのことに気付きました。例えば、北京側メンバーの一人であるM君は、「僕が想定していた北京大生像より」ユーモラスでノリが良く、そして僕らの言い分を柔軟に理解するナイスガイです。誰一人として、僕の持つ北京大生像と完全に合致する人はいません。特に理由もなく北京大生に近寄り難く思っていた自分にとって、これは嬉しい誤算であり発見でした。

 

    また手前味噌になりますが、僕に示唆を与えてくれたのは北京側だけなく東大側のメンバーも同様でした。今まで準備を共にしてきた仲間と四六時中行動を常に共にする中で、日本人像や東大生像に縛られない行動や考え方に気付き、深い感銘を受けました。

 

 

 

 

    その一方で、僕が持つ「中国像」「北京大生像」は一つのモノサシとして重要性を持つ、とも思っています。彼らがある程度共通する価値観(例えば、頻繁に言われるように、数値を用いた政策論を好む傾向)を持っていることは否定し難く、そしてそれは日本側にも言えることです。日本とシンガポールの年金制度の違い(簡略的に言うなら、賦課型と積立型の違い)では、東大側と北京側で顕著に意見の違いが見られ、その背景には、社会保障制度に求める価値観(リスクやコストをシェアするべきかどうか)の相違がありました。各国家に対するイメージは、このような違いが存在することを示唆し、ケーススタディの一つの方向性を示してくれました。その点でイメージは重要です。しかし、ここで留まるのではなく、もう一歩踏み込んでみると、確かに国家や企業のあり方に帰着する価値観も多分にありますが、個々人の内在的な価値観による部分が少なくないことに気付かされました。(例えば僕の場合、社会保障制度に求める大きなポイントは、人々に「安心」を提供するかどうかだと気付き、それゆえ積立型は確かに将来への備えを準備する点で一見社会保障制度と言えます。しかし、僕はそれを「認めたくない」と感じました。何故ならリスクを共有することに、僕は僕が思っていた以上に、重要性を感じていたのでした)

 

 

 

 

    イメージに縛られないこと。同時に一つの「気付き」を大切にするだけでなく更なる背景にまで思いを馳せること。言うは易く行うは難し。その姿勢が貫かれているかどうか、東京の最終報告会へ確かめに来て下さい。

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