論理と感情と価値観

僕は人と話をするときには論理というものがあまり好きではありません。数学や物理といった世界では絶対的な存在なのに、人と話すときに論理に頼りすぎると人間が依って立つべき感性を見失っているような気持ちになってしまいます。

 

日本ではあまり議論されていませんが、アメリカでは選挙の度に人工妊娠中絶を認めるか否かが大きな論争になっているそうです。昨年の大統領選挙では保守路線の共和党を率いるロムニーは妊娠中絶に反対したのに対し、リベラルの民主党の指名を受けたオバマは妊娠中絶を容認する姿勢を示し、ひとつの論点となりました。

 

僕は妊娠中絶の権利はどの女性にも認められるべきだと思います。しかし、なぜそう思うのかを論理的に考えると行き詰まってしまいます。一般的に妊娠中絶に反対する論理としては、「中絶は胎児の生命の権利を剥奪する行為なので許されない」というものが中心で、一方妊娠中絶賛成の論理としては「女性の選択の権利は認められなければならない」というものが代表的です。ここで双方の論理の土台になっている生命の権利と選択の権利を天秤にかけて論理的に考えると、僕の脳は生命の権利の方が重いと判断してしまいます。中絶しなければ女性が大変大きな生命の危機に晒される特殊な場合を措くと、命をとられることと選択できずにその先不自由な生活を強いられることを比べると命を取られることの方が重大な権利の侵害であると考えてしまう。女性の権利は尊重するべきであるが、何の罪もない胎児の生命の権利を侵害してまで守るべきではないという結論に至ってしまう。論理的に考えると僕は人工妊娠中絶に反対しなければならなくなってしまうのです。

 

しかし僕は、妊娠中絶に反対する陣営に立つことはできません。繰り返しになりますが妊娠中絶の権利は全女性に与えられるべきだと思います。いったいなぜなのだろうか。あれこれと悩みながらそう思う理由をつきつめると、その理由は論理が支配する理性のフィールドにはなく、経験と感情が棲む感性の世界にあることに気づきました。

 

僕が妊娠中絶を支持する本当の理由は、選択の権利を巡る普遍的な論理にではなく、現実の世界で見知っている友人や子どもたちや社会人の女性が妊娠をめぐるトラブルで苦しんでほしくないという個人的な感情にあったのです。根底にあるのは「今・ここ」で接する女性が中絶する権利を与えられずに苦しむのは耐えられないという気持ちです。周囲の女性に苦しんでほしくないのだから、もちろん自分が知らない今生きている女性にも苦しんでほしくない。だから人工妊娠中絶の権利は与えられるべきだと思う。論理ではなく、感情が、僕が妊娠中絶に賛成する本当の理由でした。

 

論理こそがルールであるディベートで僕が人工妊娠中絶を擁護する側に回ったとしましょう。「今生きている女性に苦しんでほしくないから」という個人的な感情がディベートで通用するわけがないので、論戦に勝つ為に僕は必死に人工中絶を擁護するための切れ味ある論理的理由を探すことになるでしょう。しかし、そこで相手を粉々に論破するすばらしい論理を思いついたとしてもそれは僕自身が中絶に賛成する真の理由にはなるとは思えません。逆に、人工妊娠中絶に反対する側にいくら論理的な攻撃を受けたとしても、論理の次元での敗北は認めることはあっても、今を生きる女性に苦しんでほしくないという感情が揺らがない限り、人工妊娠中絶賛成という姿勢は崩さないと思います。

 

脳死と臓器移植の関係をどう設定するか。死刑制度を撤廃するか。同性結婚を認めるか。人工妊娠中絶を巡る問題と同様に国論を二分するような問題は論理的な思考のみでなく、少なからず道徳的・感性的な営みが個々人の価値判断に現れると思います。yesなのかnoなのかを判断するプロセスには理性の働きだけでなく感性の働きも関わっているのではないでしょうか。

 

しかし、感性のフィールドが個々人の価値判断を左右するのにもかかわらず、ワイドショーなどでの政策論戦となると論理が偏重される嫌いがあると思います。もちろん論理は誰にでも理解させる説得力があるということは認めますが、人間が本来根ざしている感情を無視した論理の応酬は現実離れした空中戦のように思えることが多々あります。そうした番組は論理と事実を知る上では面白いですが、自分が価値判断を下すことにはあまり役立ちません。

 

京論壇の分科会で僕たちが扱う社会保障制度をめぐる問題でも同じです。「生活保護を減額するべきなのか」、「年金支給年齢を引き上げるべきなのか」などといった問題を考える際に、もちろん財政状況などの制約から論理的に解を導きだす努力をする必要はありますが、論理にかまけて感性の世界を完全に閉じたくはありません。自分の肌で感じたこと、腹に響いたこと、大脳のしわに刻まれたことをないがしろにして理性の世界に執着することで下される結論は僕にとっては価値判断ではなく、無機質な解答でしかありません。

 

京論壇の議論はもちろん論理を重視します。時として数学のように一意的に結論が導きだされる論理は魅力的でもあります。しかし、その論理の誘惑にかられて感性の世界を置き去りにしないようにしたい。感じたことを価値判断につなげたい。これが僕が京論壇で貫きたい姿勢の一つです。