印象に基づいて語る事について意味があるのか。

本日教育分科会のメンバーの一人の母校をフィールドワーク先として訪ねさせて頂いたのだが、上記の問いはその中で我々が改めて考えさせられたものの一つである。

まず、冒頭にて授業・補修がある中、お昼ご飯を共にとって頂くと共に、1時間程のディスカッションの時間を割いて頂いた事に対して改めてお礼を申し上げたい。

さて、本題に戻るのだが、上記の問いに対して自分が考える事を少し記しておこうと思う。

直接的に答えれば、私は「意味がある」と思う。京論壇という団体は、理念とは別に議論の目的として「人と向き合う議論」を掲げている。つまり、「価値観の議論」をしようとしている。データ、事実に基づいて、論理を積み上げ、こうあるべきであるという「べき論」を語ったり、善悪の二分論で議論をするのではなく、個々の経験に基づく意見や素直な感情から出てくる意見をぶつけあうことで、価値観の対立を見ようとしているのである。若いから、学生だから、このような印象に基づく議論を展開していると思われがちだが、自分たちが知りたいのは、’’どうしてそう思うのか’’、という事実に関する知識・常識の先に前提として存在する価値観であり、そしてその価値観の違いを北京大生・東大生という二つの大きなカテゴリーの中だけでなく、個人個人の間で見出したい。この意味で、必ずしも事実・データに基づかす、経験等から抱いた印象に基づいて意見をぶつけ合う事にも十分に意義があるのではないのだろうか。

9/29
より北京セッションに引き続き東京セッションが始まり、これまで「リベラルアーツ」、「愛国心教育」、「歴史教育」に関して議論をしてきた。ついつい「事実は○○だから、現状として△△となっていて、違いが生まれている。」
というような制度や経済成熟度に関する議論になりがちだが、それを一歩進めた議論をしようと試みている。もちろん実際には、経済的発展段階、政治体制、教科書の記述内容等の事実に関しても議論をするのだが、その中でもそもそも本人自身たちがその歴史的・経済的・政治的文脈の中で自分自身をどう捉えてきたのか考え直そうと努めている。また、自分達の現在の状況をある種当然の事として見がちだが、それに疑問を投げかける事で改めて自分たちがどう感じ、どのような意見を持つのかについても探っている。

ほんの一例を挙げさせて頂くと、
「愛国心はどのようにして育まれるべきなのか」
という議論に関しては、北京大学側も東京大学側も前提として程度の差はあれ、皆が愛国心を育む事の必要性を認めつつも、それを教育を通して行うべきなのか、あるいはそれ以外の方法で行うべきなのか、という対立があった。上記のように事実から入りながらも、現状を疑問視し、どうしてそう思うか突き詰めていく中で、以前のブログにもあがっているように北京大学の学生はある程度、国を統合する際に’効率性’を求めているように感じた。そしてこれが歴史教育において、歴史的記述に価値観を付与すべきか、あるいは事実のみを並べ、それに関する価値観の付与は読み手に委ねるべきか、という議論につながっていく。
これらは非常に難しく、ある種sensitiveな事であるのだが、我々のやりたかった事をやはり最後まで突き詰めたいと思う。

最終報告会を間近に控え、議論に割ける時間はわずかだが、改めて当初からある団体の議論の目的に立ち返る事ができたため、最終報告会に向け準備を進めようと心を新たにすると共に、本日協力してくださった方々に改めて敬意を示し、自分のブログを締めくくりたい。