京論壇2013年度セッションを終えて

こんにちは、京論壇2013代表の清水と申します。いつもブログを読んで下さって本当にありがとうございます。セッションが終わってもう一ヶ月が経とうとしていますが、この度は2013年度ブログの締め括りとして、以下の3点について述べさせて頂きます。

 

1. 京論壇はスポンサーの方をはじめとして、教授の方やアラムナイから多大な支援を頂きました。フィールドワークで訪問したニチレイ様、SMBC様では学生の知りえない本音ベースの日本企業の実態について教えて頂き、議論の大きな助けとなりました。渉外活動で訪問した各企業、団体様から頂いた意見や質問は、私達の活動をブラッシュアップする機会となりました。最終報告会で高原教授から頂いた各分科会発表に対するフィードバックは非常にクリティカルで、議論の内容を再考することができました。最終報告会に足を運んでくださった方々も、この報告会を京論壇の2013年度セッションを締め括るに相応しい場として盛り上げて下さいました。京論壇は皆様の支えでこそ成り立っていることを肌で感じ、代表としての一年は、皆様から頂く期待以上の成果を出すべく緊張感を持ったものとなりました。

 

2. 京論壇では、技術論や政策論に拘らず、互いの意見を深堀りする「価値観の議論」を重要視しています。これは京論壇が設立以来掲げている「日中の相互不信を除去することという目的を達成するためには、互いの考えの最下層、京論壇のいう価値観を理解する必要がある」という理念から出たものです。

複数国間の学生交流においては、観光、スポーツ、ビジネスコンテスト等、様々な過程がありえます。しかしその中でも、「価値観の議論」は私と他人との間に何の仲介も置かずに互いの意見をダイレクトに探ることができるという意味で、京論壇の交流において最良のツールを果たしてきました。

この価値観の議論を可能にしているのは、メンバー間にある信頼関係であるというのが今年感じたことです。普通、見ず知らずの他人、まして国籍の異なるメンバーに、自らの意見を発信し、相手の意見を深堀ることは抵抗があります。しかし京論壇には「これを言って、相手に嫌われたらどうしよう」、「彼の言うことだから、どうせまた間違っているだろう」、そういった遠慮や偏見の無い、まさに忌憚のない意見を言える場があります。以前の当ブログ投稿にあった「私はこの一週間でWhyと100回聞いた気がする」という経験は、まさにこの信頼関係の上に成り立ったものだと考えています。

 

3. 京論壇は、日中の相互不信を取り除くことがその設立の根本にあったことを先ほど述べました。ですから、私たちは2週間という期間で一過的に盛り上がることに満足せず、この一度生まれた勢いが消えないようにしなければなりません。また、今年の36という非常に少ないメンバー人数を超えて、私たちの得た気づきを共有していかなければなりません。そういった意味で、この2週間のセッションはきっかけに過ぎず、本当の京論壇はここから始まるといっても過言ではないと思います。私たち一人ひとりが京論壇の経験者だという自覚を持ち、今後ともこの環を継続させ、そして広げていくことが重要であると考えています。

 

以上となります。この一年は自分にも信じられないほど密で、取り掛かるべき課題が私の能力の限界を超えたことは何度もありました。しかし「辞めたいと思った」まして「辞めようと言い出した」ことは一度もなく、大変なことがあるたびに、京論壇のメンバーの魅力に私は何度も引き戻されました。ここまで支えてくれた2013年度メンバーへの感謝を結びとし、私の投稿としたいと思います。今後イベント等を企画する際にもこのブログで広報を行う予定ですので、ぜひご注目頂きたいと思います。改めて、今まで本当にありがとうございました。今後とも、京論壇を何卒宜しくお願い致します。

価値観の発掘とは

こんにちは、社会保障分科会スタッフの高橋です。今日は2週間のセッションを終えて得た気付きについて記したいと思います。

 

京論壇は「人と向き合う議論」を掲げ、自分と他人の価値観を発掘し、それを深く掘り下げることを大切にしていますが、実際にはどのようなプロセスをたどるものなのでしょうか。正直なところ、議論のフレームワークが出来上がっても、なかなかイメージがついていませんでした。

 

さらに根本的な問題に立ち返るならば、そもそも自分が確固たる価値観を持っているかすら怪しいと思っていました。価値観を説明するならば、人が物事に対するとき、そこに如何なる価値があるのかを考える際の、根幹となる考え方、だと思います。しかし、分科会に入るまであまり身近でなかった社会保障というテーマにおいてまで、ぶれない価値判断を下せるものなのでしょうか。ここで、私が自分の価値観を感じるに至った、実際の議論の流れをご紹介します。

 

 第一に、社会保障というテーマは、自分の価値を考える際の道具です。あくまでテーマは道具なのであって、社会保障そのものの政策を考えようとすることがメインではありません。従って、ケース(社会保障に関する事例)を上手く選定して、政策論に陥ってしまわないように、各人の価値観が表出しやすそうな議論をする必要があります。議論が実際に始まらないことには、本当に価値観が見出せるかはわかりません。この重要な、しかし未知にあふれたケースの準備・選定という作業を、議論直前まで綿密に詰めて頑張る分科会メンバーの姿は、今も私の目に焼き付いています。

 

 議論当日、いざケースに対する意見を述べる段階になると、自分が国家の統制よりも個人の自由に重きを置く発言をしていることに気付きました。一つケースを例に挙げるならば、生活保護を受けている人に対して、その使い道をどこまで他人が監視してよいものなのか、という議論がありました。この時私は、その人の生き方の自由を重んじるべく、監視は一切すべきでない、と主張しました。それに対して、社会保障というのは国の制度である以上、人はある程度の自由を犠牲にして国に統治を委託しているのだから、血税に支えられた生活保護の使い道は制約されてしかるべき、という反論が出ました。この差異を見て、初めて私は自分の価値観を相対化し、その特徴を見ることができました。本番セッション後半からは、周りからも「Libertarianだね!」と言われたり、「そう言うと思っていたよ」と言われたりするようになりました。

 

しかしさらに議論が進むと、ケースによっては、自分が個人の自由よりも国家による統制を重んじる場合が出てきました。無論、自分が持つと信じる価値観に合わせて意見を出すというのは、価値観の発掘というよりは、価値観に振り回されているだけですから、考えたままに意見を述べていたわけですが、それにしても意見が変わった自分に驚きました。しかしこの時にも、私に示唆を与えてくれたのは皆の議論でした。「これ以上ケースをやっても、お互いに大分理解してきた価値観に基づいて発言するだけなのだから、意味がないのではないか」と問題提起した人に対して、「ケースによって意見は変わることがあり、そのわずかな変化にこそさらなる価値観が見出せるんだ」と言った人がいたのです。なるほど、では私の意見の変化はどこから出たのでしょうか。それは、先程例に挙げたケース以来、自分が、今議論しているのはあくまで国家が主体となっている社会保障のことであり、その限りでは国家の統制が大事だ、と考えるようになっていたからでした。逆に、NGOや家族間での助け合い、という広い意味での社会保障に関しては、個人の自由や自発性を重んじるべきだと考えていたのでした。

 

このような議論に、濃密な2週間をともにする京論壇の活動の良さがにじみ出ていたように思います。はじめは各ケースについて個々人が意見を激しくぶつけて、互いの差異を見出しているだけでしたが、やがて相手の思考回路まで予想がつくようになり、その人らしい意見だと気付くようになるのです。議論における人の意見を、無闇にその人らしさ、あるいは人格と混同することは確かに間違っています。しかし、その人の本心からの意見というのは、もとをたどれば本人の価値観から出るものであり、また、人格は、その人が自分の信じる価値を重んじるべく行動した結果表れてくるものなのだとすれば、その両者はどこかで繋がっているように思います。価値観の議論、というのは、その人自身をしっかりと理解すべくとことん意見をぶつけることだと思います。価値観は違うのだから、それに合わせる必要はどこにもありませんが、しっかりと受け止め合うことは可能です。互いの価値観を受け止め、さらに発掘していこうと本音をぶつけ合った社会保障分科会の皆さんに心から感謝しています。

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印象に基づいて語る事について意味があるのか。

本日教育分科会のメンバーの一人の母校をフィールドワーク先として訪ねさせて頂いたのだが、上記の問いはその中で我々が改めて考えさせられたものの一つである。

まず、冒頭にて授業・補修がある中、お昼ご飯を共にとって頂くと共に、1時間程のディスカッションの時間を割いて頂いた事に対して改めてお礼を申し上げたい。

さて、本題に戻るのだが、上記の問いに対して自分が考える事を少し記しておこうと思う。

直接的に答えれば、私は「意味がある」と思う。京論壇という団体は、理念とは別に議論の目的として「人と向き合う議論」を掲げている。つまり、「価値観の議論」をしようとしている。データ、事実に基づいて、論理を積み上げ、こうあるべきであるという「べき論」を語ったり、善悪の二分論で議論をするのではなく、個々の経験に基づく意見や素直な感情から出てくる意見をぶつけあうことで、価値観の対立を見ようとしているのである。若いから、学生だから、このような印象に基づく議論を展開していると思われがちだが、自分たちが知りたいのは、’’どうしてそう思うのか’’、という事実に関する知識・常識の先に前提として存在する価値観であり、そしてその価値観の違いを北京大生・東大生という二つの大きなカテゴリーの中だけでなく、個人個人の間で見出したい。この意味で、必ずしも事実・データに基づかす、経験等から抱いた印象に基づいて意見をぶつけ合う事にも十分に意義があるのではないのだろうか。

9/29
より北京セッションに引き続き東京セッションが始まり、これまで「リベラルアーツ」、「愛国心教育」、「歴史教育」に関して議論をしてきた。ついつい「事実は○○だから、現状として△△となっていて、違いが生まれている。」
というような制度や経済成熟度に関する議論になりがちだが、それを一歩進めた議論をしようと試みている。もちろん実際には、経済的発展段階、政治体制、教科書の記述内容等の事実に関しても議論をするのだが、その中でもそもそも本人自身たちがその歴史的・経済的・政治的文脈の中で自分自身をどう捉えてきたのか考え直そうと努めている。また、自分達の現在の状況をある種当然の事として見がちだが、それに疑問を投げかける事で改めて自分たちがどう感じ、どのような意見を持つのかについても探っている。

ほんの一例を挙げさせて頂くと、
「愛国心はどのようにして育まれるべきなのか」
という議論に関しては、北京大学側も東京大学側も前提として程度の差はあれ、皆が愛国心を育む事の必要性を認めつつも、それを教育を通して行うべきなのか、あるいはそれ以外の方法で行うべきなのか、という対立があった。上記のように事実から入りながらも、現状を疑問視し、どうしてそう思うか突き詰めていく中で、以前のブログにもあがっているように北京大学の学生はある程度、国を統合する際に’効率性’を求めているように感じた。そしてこれが歴史教育において、歴史的記述に価値観を付与すべきか、あるいは事実のみを並べ、それに関する価値観の付与は読み手に委ねるべきか、という議論につながっていく。
これらは非常に難しく、ある種sensitiveな事であるのだが、我々のやりたかった事をやはり最後まで突き詰めたいと思う。

最終報告会を間近に控え、議論に割ける時間はわずかだが、改めて当初からある団体の議論の目的に立ち返る事ができたため、最終報告会に向け準備を進めようと心を新たにすると共に、本日協力してくださった方々に改めて敬意を示し、自分のブログを締めくくりたい。

当たり前を疑うこと

こんにちは、労働分科会参加者の青柳です。

 

一週間で100回以上の”Why?”を発しました。

 

 僕が京論壇に参加した理由は、京論壇は「個々人の価値観をぶつけあう」ことが予め設定されている場所だからです。価値観の議論というと難しく聞こえますが、つまりは自分が何が好きで何が嫌いかを言葉にして他者と共有する作業だと考えています。

 普段はなかなか出来ない、個々人の感じ方に根ざした議論をいわば強制される空間で否応なしに掘り下げられることで、新たな価値観を知り、自分を知ることを目標にして北京に向かいました。

 

しかし北京セッションにおいては「社会」という大きな壁にぶつかりました。

 

 「大学の専攻と就職は関連すべきか?」「スキルミスマッチは問題か?」

このような質問に答える際に、最終的には「日本/中国はこのような社会であり、その社会に住む個人がこのように感じるのは無理もない」というような結論になることが多くありました。

 

 1つの物事を説明する方法は無数にあります。ただし一度ある説明に納得するとそれを再び疑うことは困難です。ましてや他の説明に納得することは容易ではありません。

 「日本のシステムはこうだから日本人はこう考える」、「中国ではこういう習慣があるから中国人はこう感じる」・・・。社会が個人の価値観を規定するというのはわかりやすい説明ですし、納得できる部分も大いにあります。でも、本当にそれが最終的な答えなのでしょうか?まだ納得できない部分が多くあります。

 

 個人と社会を行き来しながら、妥協せず”Why?”を自分にも他人へも問い続けることで、個人の価値観を形成する核を見つけていきたいと思います。

北京セッションを通じて感じたこと

 

   社会保障分科会の窪西です。北京セッションも佳境に差し掛かり、今まさに中間報告会に向けた最終準備に取り掛かっている最中です。(従って、この文章がアップされる頃には、報告会を終えて祝杯を挙げていることでしょう)

 

 

 

 

   さて、社会保障分科会での最大の目的は「社会保障制度に関する議論を通じた個々人の価値観の発露」にあります。そこで今回は少々スペースを頂いて、僕の価値観のうち、北京セッションを通じて意識に現れた部分について話したいと思います。

 

 

 

 

    僕は今まで無意識のうちに、「日本人が〜」「北京大生は〜」といった抽象的(ないし帰納的)な言い方を好んできました。個々人の行動や思考様式が国家や学校という周囲の環境から受ける影響力の強さを考えれば、それは妥当な発想に思われますし、帰納的思考は社会科学を学問たらしめる一つの根拠です。しかし、僕が北京に来て接しているのは、「中国人」や「北京大生」といった抽象的な概念ではなく、その人そのものです。”〜 than I expected”という表現を飽きるほど用いるうちに、僕はそのことに気付きました。例えば、北京側メンバーの一人であるM君は、「僕が想定していた北京大生像より」ユーモラスでノリが良く、そして僕らの言い分を柔軟に理解するナイスガイです。誰一人として、僕の持つ北京大生像と完全に合致する人はいません。特に理由もなく北京大生に近寄り難く思っていた自分にとって、これは嬉しい誤算であり発見でした。

 

    また手前味噌になりますが、僕に示唆を与えてくれたのは北京側だけなく東大側のメンバーも同様でした。今まで準備を共にしてきた仲間と四六時中行動を常に共にする中で、日本人像や東大生像に縛られない行動や考え方に気付き、深い感銘を受けました。

 

 

 

 

    その一方で、僕が持つ「中国像」「北京大生像」は一つのモノサシとして重要性を持つ、とも思っています。彼らがある程度共通する価値観(例えば、頻繁に言われるように、数値を用いた政策論を好む傾向)を持っていることは否定し難く、そしてそれは日本側にも言えることです。日本とシンガポールの年金制度の違い(簡略的に言うなら、賦課型と積立型の違い)では、東大側と北京側で顕著に意見の違いが見られ、その背景には、社会保障制度に求める価値観(リスクやコストをシェアするべきかどうか)の相違がありました。各国家に対するイメージは、このような違いが存在することを示唆し、ケーススタディの一つの方向性を示してくれました。その点でイメージは重要です。しかし、ここで留まるのではなく、もう一歩踏み込んでみると、確かに国家や企業のあり方に帰着する価値観も多分にありますが、個々人の内在的な価値観による部分が少なくないことに気付かされました。(例えば僕の場合、社会保障制度に求める大きなポイントは、人々に「安心」を提供するかどうかだと気付き、それゆえ積立型は確かに将来への備えを準備する点で一見社会保障制度と言えます。しかし、僕はそれを「認めたくない」と感じました。何故ならリスクを共有することに、僕は僕が思っていた以上に、重要性を感じていたのでした)

 

 

 

 

    イメージに縛られないこと。同時に一つの「気付き」を大切にするだけでなく更なる背景にまで思いを馳せること。言うは易く行うは難し。その姿勢が貫かれているかどうか、東京の最終報告会へ確かめに来て下さい。

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教育分科会 北京セッション

 「どうして中国は〇〇なの?」(〇〇はネガティヴなこと)という質問に

 

 「中国は人口が多いから…」「中国は国土が広いから…」

 

 この言い訳をセッション中何度も聞いている。

 

 

 外国企業の多くがまさにこれらの理由で中国市場に魅力を感じて進出している一方、ネガティヴな事象もこれによって説明されることは皮肉だ。この国の膨大な資源や人材も、巨大な人口と広大な国土を養うのには十分でないのかもしれない。 

 

 北京大生の思考は極めて合理的・経済的だ。まるで「限られた資源」を最大限に有効活用するために、常に考えているかのようだ。

 

 

 私は教育分科会に所属している。教育の場にどれくらい経済的な合理性を持ち込めるのか、ということは議論の対象だ。北京大生は教育の場にもいったん合理的な考えを持ち込むことにためらいがない。より多くのリソースを成長の可能性を秘めた人に“投資”するため、競争させるのは極めて正しい選択肢だそうだ。

 

 

その一方で彼らの思考はそこで止まっている。競争を善しとする発想の背景には、「限られた資源」があるというが、それ以上のことは聞いても納得のいくようなことをはまだ語ってくれてない。そもそもなぜ個人の体験や、個人の文化的な文脈の中の理由を第一にあげるのではなく、国家の地理や人口を最初に口にするのだろうか。

 

 

彼らの思考の仕方に癖や優先順位があるのならば、それをこの2週間で解き明かしたいと思う。

渡航まであと2日ですね!

こんにちは!労働分科会参加者の米田です。 渡航まであと2日となりましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は渡航前の冷蔵庫の整理ということで、今日は朝から食べ続けています。

 

労働分科会ということで、今回のブログでは①労働分科会で夏休みに行った準備について ②私がスペイン滞在で感じた世界の労働スタイルについて この2つについて書いてみたいと思います。

 

まず、労働分科会の夏休みの取り組みについてです。8月頭に合宿を行い、それ以降は本やインターネットからデータを集めての勉強会を行いました。一番印象に残っているのはやはり合宿です。労働分科会のメンバーは良い意味でみんなキャラが濃くて、他の4人のメンバーがそれぞれ多様な分野の知識を持っているので、ディスカッションの中で毎回勉強になることがとても多いです。「何のために働くのか?収入はどれくらい必要か?自由な時間は必要か?」といった質問からは、皆価値観を激しくぶつけ合うことができ、メンバーの意外な一面が見られたのもとてもよかったです。合宿中はほとんどの時間が英語でのディスカッションで、慣れない頭をフルにつかったら、頭痛になってしまいました。本番セッションは長丁場になるので、メンタルと体力もかなり大切になると思います。渡航まで数日ですが、最後まで知識収集、そして腹筋と背筋もして、頭と身体を鍛えたいと思います。 

 

 次にスペインで出会った世界のworkerについてです。私はこの夏スペインで2週間語学留学をしたのですが、クラスメートのほとんどがバカンスで来ている社会人の方でした。中には残業を繰り越して休暇を伸ばし、8週間ものvacationをとって留学に来ているドイツ人女性の方も。「学生時代にしかできないことを…!」と思って参加した短期留学でしたが、そもそも学生しかまとまった自由時間を持てないというのは、日本特有なのかもしれません。また、vacationではなく仕事をしながら留学をしている、アメリカのコンピュータープログラマーの方に何人か会ったのがとても驚きでした。彼らはWi-fi さえつながれば世界のどこでも仕事ができるのです。午前中にバルセロナの語学学校に通い、昼に7時間、ホテルで一気に仕事を片付け、夜はビーチでお酒を飲む…まさに夢のような暮らしをしていました。彼らを見て、羨ましく思ったのと同時に、会社に毎日通い、社内の人間関係にも気をすり減らすだけが仕事じゃないんだなあと、溜飲が下がりました。コンピュータープログラマーという仕事は極端な例ですが、いずれIT化によって多くの仕事が場所を問わずできるようになると、「Work Shift」(労働分科会の課題教科書)でも言われています。女性の社会進出の問題も、都市の渋滞、住宅問題も、これで解消されるのではないかと、希望を感じています。

 

とはいえ、いくらIT化が進んでも、やはり直接手の触れられる距離でのコミュニケーションに勝るものはありません。テレビ会議では得られない価値観のぶつかり合いを、北京セッション、東京セッションで楽しみたいと思います。